▼大型店を機に発展した本通り東側
昭和四十年代、岩国駅前の商店街は地域の中心地としての基盤をさらに強固なものにした。
昭和四十年代前半から中ごろに掛け、本通り東側のまち並みは一気に活気付く。一九六三年(昭和三十八年)、いち早くアーケード化を実現したことが発展に拍車を掛けた。その中心に開業していた地元百貨店「玉屋」は豊富な品ぞろえで客足を呼んだ。
「玉屋は岩国ではまだ珍しい五階建てでした。随分と話題になりましたね」と当時を知る人は語る。
さらに、この通りの延長線上の今津町一丁目に「寿屋」を経て「にしき屋」となっていた商業施設(現中央フード本社)に一九六八年(昭和四十三年)、九州資本の大型スーパー「ユニード」が進出した。三笠橋交差点は、横断歩道から人があふれるほどの行き交いが見られた。こうした大型店を核に、個人商店が周辺に並び、にぎやかなまち並みが形成されていく。
▼発展性を見込み、広島からの商店進出も
岩国駅前は商業中心地としてだけでなく、地域文化の発信地としての役割も担うようになった。六五年(昭和四十年)、当時の商店主が岩国祭りをさらに華やかなものにしようと「白蛇様」を作った。商売繁盛の神様、弁財天の使いとして信仰を集めるシロヘビは岩国の天然記念物。その巨大な張りぼてを棒で支えながら練り歩く御神幸は岩国祭りの呼び物になった。
六八年(昭和四十三年)、岩国商が夏の甲子園に出場した際、白蛇様を甲子園に持ち込んで応援しようとしたが、高野連のストップで断念したエピソードもある。
昭和四十年代初めごろから土曜夜市が始まった。中通りにミニSLが走り、ちびっ子を楽しませた。
「当時は歳末セールに五木ひろしを招いたり、懸賞に香港旅行をプレゼントしたりと元気があった」
岩国駅前は発展性のあるまちとして、広島などから駅前に進出して開業する人も少なくなかった」と商店主たちは語る。
▼中通り、西側筋にもアーケードが完成
この時期、中通りと、本通り西側筋ではアーケード建設など商店街活性化のための事業が進んだ。本通り東側筋に比べ、本通り西側筋と中通りは集客力のある大型店が少なく、客の流れは鈍かった。
話は少しさかのぼるが、昭和三十年代から四十年代にかけて中央通り、中通りに面した敷地に大型店舗を構えていた「十字屋」の存在は大きかった。五八年(昭和三十三年)、高級衣料品を中心とする店として出発、消費者を集めたが、昭和四十三年ごろ閉店。通り全体の集客力は次第に失われていった。
六七年(昭和四十二年)、中通りに靴屋「ユニークシューズ」を開業した萩猛さんは「私は広島から出てきた。いざ店を立ち上げてみると、人通りがさっぱり。このままだとまずいなと若手商店主とともに危機感を抱いていた」と振り返る。
その意識が高まり、一九七一年(昭和四十六年)、全長二百五十メートルの中通りアーケードが完成する。萩さんは「アーケード建設で、まち並みが明るくなったのはもちろんだが、みんなでアーケードを造ったという連帯意識で商店街の結束力が強まった。これが大きかったですね」としみじみ。
一方、本通り西側筋では同時期、中国電力岩国営業所(現YMCA国際医療福祉専門学校)の移転計画が持ち上がった。商業集積地として活性化を目指す商店街は、行政や関係機関と話し合い、その結果、七三年(昭和四十八年)、同営業所は南岩国地区に移転。その跡地に七四年(昭和四十九年)、大型スーパー「ニチイ岩国店」が開業した。
本通り西側筋もアーケード建設に取り組んだ。七四年(昭和四十九年)二月から事業がスタート。同年九月にアーケード完成パーティーが盛大に行われ、駅前商店街は華やかな魅力あるまち並みとなった。
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昭和40年代後半、本通り「フジグラン岩国」付近。 現在とはまち並みがかなり違う
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