▼爆弾穴と田園風景
岩国駅前に商店街が形成され始めたのは、戦後になってからだ。戦前の駅前はタクシー乗合所、個人商店や民家などが点在する、のどかな地域だった。当時は西岩国地区や今津地区に古くからある商店街が繁栄しており、さらに、大量に人員を雇用していた帝人岩国工場の“城下町”として、東地区(当時は人絹町と呼称されていた)がにぎわいを見せていた。
駅前地区は一九四五年(昭和二十年)八月十四日、終戦直前の大空襲で壊滅的な被害を受けた。まち並みには無数の爆弾穴が開き、商店や家はがれきの山と化した。
戦後間もなく闇(やみ)市や飲み屋などで、まちが形成され、駅前周辺に再び人が集まるようになった。消費・購買活動も活発になり、駅前での出店者が増え始める。
昭和二十年代前半、まだ店がまばらな本通りで開業した藤本自転車店の藤本満さん(83)、ふじの時計店の藤野時夫さん(77)は、「あのころから続いている店は今では私らくらい。当時はまだ店がちょっとしかなく、食うや食わずの時代だったから働くのに一生懸命だった」と振り返る。
昭和二十年代後半になると、現在の本通り商店街周辺は商店や事業所、民家などが建ち並び、まち並みらしくなってきた。とはいえ、昭和二十年代ごろは現在の本通りから一歩外れると、爆弾穴と田園風景が広がるばかりだった。
当時の中通り筋は、いわば、田のあぜ道のような状態。一杯飲み屋などが点在する程度にすぎなかった。一九五三年(昭和二十八年)、中通りで、履物店を開業した店主は「当時、茂奈美が本通り側入り口にあったのを覚えている。飲み屋を合わせても十軒程度しか店がなかった。
こんな田んぼの中によく店をつくったものだとみんなに言われましたよ」と遠くなった過去について語る。 |

終戦間際の大空襲で壊滅的被害を受けた岩国駅周辺
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